作成者からのメッセージ

概要説明・作成した動機

 私が読んだ本に「日本の建築史を見ると、コミュニティをつくるときはまず学校をつくるのだと。ヨーロッパならば教会をつくるときに、日本では学校をつくる。」という一節があります。本当でしょうか?
 そこで、日本に学制が発布された1872(明治5)年から現在までの約150年を横軸に、江戸時代からある村々(地域コミュニティ)が合併して入間郡の町や村となり、1955(昭和30)年に現在の所沢市になるまでを青色で、地域コミュニティの集まりである行政区(地区)を灰色で、小学校を黄色、中学校をオレンジ色で、所沢市立だったことのある高等学校を緑色で色分けして、それぞれの主な沿革や変遷と関係性を一枚にまとめたのが、この「所沢の地域コミュニティと学校のうつりかわり」です。

一覧にして気付くこと

 明治の初期、学校に子どもを通わせて人数が集まる規模のコミュニティが、所沢(旧町)、富岡、中富、西富、下新井、安松、久米、秋津、荒幡、上新井、城、三ケ島、林と主に川沿いにあたる(井戸を掘って水が出る生活用水に困らない)土地にあったことが分かります。
 この頃はまだ、狭山湖(山口貯水池)も飛行場(航空発祥の地)も鉄道(西武鉄道や武蔵野鉄道)も電気や水道のインフラもありません。人々の往来や生業などに、大いに想像力を駆り立ててくれます。そして、村々も学校も合併を繰り返し、明治、大正、昭和と時代が進んでいきます。
 そして戦後。水に苦労した所沢も利根川から水をひくようになり、基地跡が返還されるに従って人口が増え、コミュニティが形成され、所沢の発展とともに学校が次々と開校していくことがひと目で分かります(現在は11行政区、中学校15校、小学校32校を数えます)。
 学校名に着目すると、昭和30年代は市として一体感を考えていたのか、南小や北小、東中という学校名が見られます。続いて公募で決めていた学校名は高度成長の時代背景もあり、明峰小や清進小、向陽中から泉小まで、期待を膨らませる漢字の組合せになります。そして、ちょうど50年前。明治時代に合併を余儀なくされた北秋津小、上新井小、林小が開校して以降は学校名が地名由来へと変化します。
 実際、50年前の北秋津では、マチを挙げてハガキを買い込み「北秋津小学校」と応募し、学校名が決まった時には『(明治初期に西洋風の校舎を建てて開校した)学校が戻ってきた』とよろこんだお話しを、当時の保護者の方々から聞いたことがあります。日本の建築史は知らなくてもこの一例で地域コミュニティと学校の密接な関係が分かりますし、こうした“ものがたり”は皆さんの案外身近なところにあるのかも知れません。

この一覧に込めた想い

 以前、市の審議会の会議で「自分の住むマチを良くしようと思うと、その歴史が気になるようになる」という新聞のコラムを紹介したことがあります。これからコミュニティ・スクールが浸透していって、学校や地域を良くしたいと思った方々が、5年後、10年後、15年後にこれを見て、何かのヒントになってくれれば、という想いを込めました。