作成者からのメッセージ

作成した動機

 私が読んだ本に「日本の建築史を見ると、コミュニティをつくるときはまず学校をつくるのだと。ヨーロッパならば教会をつくるときに、日本では学校をつくる。」という一節がでてきました。そこで、所沢市立だったこともある所沢高等学校を含め、市内48の学校の沿革と地域の関係を一覧にしてみようと思い立ち作成したのが「所沢の地域コミュニティと学校のうつりかわり」です。

一覧にして気付くこと

 明治の初期、学校に子どもを通わせて人数が集まる規模のコミュニティが、所沢(旧町)、富岡、中富、西富、下新井、安松、久米、秋津、荒幡、上新井、城、三ケ島、林と、主に川沿いにあたる土地にあったことが分かります。
 この頃はまだ、狭山湖も飛行場も鉄道もありません。北野(小手指)と山口が1つの学校を作っているのも興味深く、その頃の人々の行き来や生業などに、大いに想像力を駆り立ててくれます。が、1つひとつのコミュニティや学校に触れていては、枚挙にいとまがありません。いずれ参考にした資料とともに整理していこうと思います。
 そして戦後。水に苦労した所沢も利根川から水をひくようになり、基地が返還されるに従って人口が増え、コミュニティが形成され、所沢の発展とともに学校が次々と開校していくことが分かります。
 明治の20~30年頃に合併した学校も次々と新設されますが、ちょうど50年前の林小、上新井小、北秋津小が開校した時に、学校名に変化が見られます。すなわち、公募で決めていた学校名の明峰小や清進小、向陽中…から泉小まで、新しい言葉が学校名となっていますが、昭和51年以降(平成7年の和田小の開校まで)は地名由来へと学校名が変わります。
 実際、50年前の北秋津では、マチを挙げてハガキを買い込み「北秋津小学校」と応募し、学校名が決まった時には『学校が戻ってきた』とよろこんだお話しを、当時の保護者の方々から聞いたことがあります。

この一覧に込めた想い

 以前、市の審議会の会議で「自分の住むマチを良くしようと思うと、その歴史が気になるようになる」という新聞のコラムを紹介したことがありますが、これからコミュニティ・スクールが浸透していって、学校や地域を良くしたいと思った方々が、5年後、10年後、15年後にこれを見て、何かのヒントになってくれれば、という想いを込めました。